大方がアルバイターで店舗運営している年中無休サービス店

こんばんは。

年の瀬、いかがお過ごしですか。

 

 

最近、店長が変わってからバイト先がブラックみを帯びてきて精神的にキています。

 

まあ繁忙期っていうのもあるんですけど。

毎年思うんですが、クリスマスイブ・クリスマス・大晦日・正月ぐらいは飲食店スーパー百貨店全部休みにしてしまえと思う。

時給も上がらんくせに人手不足の中フルタイムでアルバイト。今年こそ絶対入ってやらんぞと思いながら頑なに拒否し続けてきたのだが、まあリオープンしたてだし…新人さんばかりじゃかわいそうだし…なにせお金が欲しい!年末年始特に予定もないし!(泣) 入るか…と一瞬思ってしまった過去の自分を殴りたい。悔しい!!!!!

 

しかしまあ、一度了承してしまっては私の責任…ということでここはグッとこらえる。

 

 

 

 

最近バイトがいいように使わされているような気がする。出会ってから一ヶ月、新店長の言うことはわりとごもっともで、お頭がよろしいんだなと感じる。勉強になることもとても多いのだが、シフト外の呼び出し、ミーティング、事務仕事に「???」。

 

ん?ちょとまて?これ時給つかんよね?おかしい。私だけじゃない。他のバイトの子らにも少しずつ当たり前のように仕事を振らせ、常態化してきている。これはいかん。少しずつ少しずつ暗黙の了解で時間外労働をしてしまっているアルバイターのそこのあなた。ダメですよ!例え店のため仲間のためとはいえ、間違ったことは間違ってると言うべきですよ!!!コンプライアンスで訴えっぞ!!!!!

 

想像以上にこの店は病んでいる。3日バイトに行けば1人は誰かどこかで泣いているのを見かける。メンタル面をフォローする余裕が皆ほとんど無いのだろう。私も先日店長の前で泣いてしまった。いや、泣いてやった。店長にはもう正直、失望している。

こんな店舗はうちだけではないのだろう。日本人は頑張ることが当たり前、理不尽なことを言う上司にあたってしまってもなんとか毎日堪えながら働いている人が多い。これは逃げなんじゃないか?甘えじゃないか?とかね。無駄に自分に厳しくなってしまう。立場上、経済的理由で、世間の目が、とかなんとか色々あるけど、こういうときやっぱり正しいことを物怖じせずに言える人になりたいなと思うよね。

 

私は明日から某イベント最寄の某飲食店にヘルプとして行くので、今年はもう自店舗へ行くことはない(嬉しい)。年明け正月…負けるな…がんばれ。言っても変わらないのなら、こんなクソアルバイト辞めてやる。

 

モノや言葉の持つ既成概念の手強さ

私は大学でデザインの勉強をしている。

 

 

 

建築学科から派生してきたような夜間学科なので、建築をベースにその他プロダクトデザインから都市デザインまであれこれと学べる学科だ。

 

 

そういったデザイン系学科なので、もちろん演習課題も出され提案、設計、模型作りを行う。

 

のだが。

 

2年ももうすぐ終わるというのに、未だ課題指定どおりに沿ったものづくりになかなか苦戦している。

 

 

 

 

例として、イスをデザインする課題が出たとしよう。

 

イスというのは、果たして一体どこからどこまでがイスなのだろうか?

腰掛けられたらそれはもう「イスのようななにか」になる?そしたらベッドや階段、道路端にあるフェンスにも腰掛けるシーンがよくあるね。座る体勢も色々ある。「イス」のイメージとしては腰を軽く降ろして脚を組めるくらいの高さがある安定したモノであるが、もしも「座る」行為全般がイスの定義に入るのなら、モノの形、大きさにも可能性が広がる。正座、あぐら、体育座り…。いろんな座り方がある。フェンスのようなパイプが1つあるだけでも、人はそこに座ろうとする気持ちが起こる。ブランコも世間一般ではイスとは呼ばないが、「座る」という括りには含まれる。イスのようなものかもしれない。

 

私たちが「イス」と聞いてイメージする、座面があって肘掛けがあって背もたれがある、あのアイコンからいかに抜け出すかが新しいアイデアを生み出す際に重要な気がする。

 

 

 

こうしてイスという既成概念をいかに崩していくか。何を定義としてイスとするのか。あくまで私はイスをデザインしているわけなのだが、今まで生きてきた中でのイメージを払拭するため、新たな定義を確立して「イスのようなまた別のなにか」を作っていることを意識する。

 

この作業に毎回大苦戦する。イスという形はこうだ!というのが、脳みそにイヤというほど染み付いてしまっている。当たり前を当たり前ではないと考える作業は自分を騙しているような感覚にもなって、毎回頭がこんがらがってしまう。また既成概念を崩し過ぎてしまっても、それはもはやイスとは呼べなくなってしまい、課題の主旨からそれてしまう(私がよくやってしまうパターン)。デザイナーは言葉が持つ既成概念と常に戦っているのだと思う。

 

私の理想イメージは、「イスだけど、イスじゃない」。言葉では矛盾しているけど、その矛盾の狭間にベストがあるような気がする。新たなジャンルの確立、新しい提案というのを将来デザイナーとして見つけていけたらいいなと思っている。

 

 

 

正直、納得のいくデザインを作り上げる作業は苦しい。そのときは良いと思っても、次の日には何か違う…、ということもよくある。知らず知らずのうちに既成概念に縛られていて、一般ではごく当たり前のことなんだけれど、言葉ひとつひとつになんの疑いもなく発してしまっている我々がいる。その無意識、無自覚に、いかに立ち止まって見つめ直せるか…。当たり前を当たり前じゃないと半ば無理やり考える作業はとても苦しいけれど、その常識を破れた瞬間、新たななにかを得ることができた達成感は好きだ。そこから理由ある形へとつながる。周囲が自分の新しいデザインを見て驚いたり、感心してくれるのがすごく嬉しい。私もデザイナーや建築家、他の学生が作ったものを見て、既成概念を壊されるのが楽しい。自分には考えつかなかった、新鮮な発想をしているのがまた悔しくて、なにくそと思い頑張れる。

 

デザインに正解不正解は無く、時代と共に既成概念も塗りかえられていく。デザインとはなんなのか、答え無く宙にふわふわ浮いている掴みづらい分野だが、それが逆に良かったりもする。やれるとこまで追求し尽くしたい。

 

 

 

今日は週に一度の演習の日だ。課題提出がある。気分転換で記事を書いていたが、もうこんな時間になってしまった。けれど考えを一旦外へ向けた文章として文字化するのもいいね。頭の整理整頓になる。ブログを始めてよかったです。これからも最低週一ペースで更新はしていきたいな。

 

 

 

それでは。しばし仮眠。起きたらまた壊しきれていない既成概念と戦います。

 

おやすみなさい…。

これから何処へ行くのか

 

 

自分に自信がなくなると、メモ魔と化す。

 

 

自己分析をする。

 

どうして、どうしてあの瞬間、この言葉が発せられなかったのだろう?また笑って誤魔化した。会話に対して受け身な自分。理想的じゃない。流されるがままの自分が嫌だ。次こそは堂々と────

 

 

 

 

こんなことを中学のころから延々と考え続け、早8年。

 

案外変わってないのな。前より自信ついたと思ってたけど。人って変えようとしてそうそう変えられるもんじゃないな。

 

 

 

 

自分ってなんだ?と思うんだけど、今まさにそう悩んでる自分、理想の上っ面だけをかぶりあたかもなりたい自分になれた気分に浸っている自分、どれもこれも全部「自分」なんだよなぁ〜〜〜。

 

 

 

20歳。女。現在大学2年。今の確かな自分を文字化することで、自分は自分だと落ち着かせる。軸の無いふわふわした自分はすごくぼやけてて、それは輪郭のない人間っぽい誰かだ。

自分らしい自分になりたい。それも理想的な。上っ面だけじゃなく中身もとなると、やはり長く生きるという経験が必要だな。

 

…そんなこと、急ぎようにも急げない。焦るでない、私。とりあえず、今目の前にあるやるべきことをやればいいのではないか?数日後困らないために課題を進めるべきではないか?明日のバイトのために、今すぐ寝るべきではないか?

 

 

そんな当たり前のようなことをつらつらと文字化・分析しないと理解できない自分です。

 

 

 

人生ふらふら渡り道な道中。なんとか落ちないよう、頑張らない程度に頑張ります。