モノや言葉の持つ既成概念の手強さ

私は大学でデザインの勉強をしている。

 

 

 

建築学科から派生してきたような夜間学科なので、建築をベースにその他プロダクトデザインから都市デザインまであれこれと学べる学科だ。

 

 

そういったデザイン系学科なので、もちろん演習課題も出され提案、設計、模型作りを行う。

 

のだが。

 

2年ももうすぐ終わるというのに、未だ課題指定どおりに沿ったものづくりになかなか苦戦している。

 

 

 

 

例として、イスをデザインする課題が出たとしよう。

 

イスというのは、果たして一体どこからどこまでがイスなのだろうか?

腰掛けられたらそれはもう「イスのようななにか」になる?そしたらベッドや階段、道路端にあるフェンスにも腰掛けるシーンがよくあるね。座る体勢も色々ある。「イス」のイメージとしては腰を軽く降ろして脚を組めるくらいの高さがある安定したモノであるが、もしも「座る」行為全般がイスの定義に入るのなら、モノの形、大きさにも可能性が広がる。正座、あぐら、体育座り…。いろんな座り方がある。フェンスのようなパイプが1つあるだけでも、人はそこに座ろうとする気持ちが起こる。ブランコも世間一般ではイスとは呼ばないが、「座る」という括りには含まれる。イスのようなものかもしれない。

 

私たちが「イス」と聞いてイメージする、座面があって肘掛けがあって背もたれがある、あのアイコンからいかに抜け出すかが新しいアイデアを生み出す際に重要な気がする。

 

 

 

こうしてイスという既成概念をいかに崩していくか。何を定義としてイスとするのか。あくまで私はイスをデザインしているわけなのだが、今まで生きてきた中でのイメージを払拭するため、新たな定義を確立して「イスのようなまた別のなにか」を作っていることを意識する。

 

この作業に毎回大苦戦する。イスという形はこうだ!というのが、脳みそにイヤというほど染み付いてしまっている。当たり前を当たり前ではないと考える作業は自分を騙しているような感覚にもなって、毎回頭がこんがらがってしまう。また既成概念を崩し過ぎてしまっても、それはもはやイスとは呼べなくなってしまい、課題の主旨からそれてしまう(私がよくやってしまうパターン)。デザイナーは言葉が持つ既成概念と常に戦っているのだと思う。

 

私の理想イメージは、「イスだけど、イスじゃない」。言葉では矛盾しているけど、その矛盾の狭間にベストがあるような気がする。新たなジャンルの確立、新しい提案というのを将来デザイナーとして見つけていけたらいいなと思っている。

 

 

 

正直、納得のいくデザインを作り上げる作業は苦しい。そのときは良いと思っても、次の日には何か違う…、ということもよくある。知らず知らずのうちに既成概念に縛られていて、一般ではごく当たり前のことなんだけれど、言葉ひとつひとつになんの疑いもなく発してしまっている我々がいる。その無意識、無自覚に、いかに立ち止まって見つめ直せるか…。当たり前を当たり前じゃないと半ば無理やり考える作業はとても苦しいけれど、その常識を破れた瞬間、新たななにかを得ることができた達成感は好きだ。そこから理由ある形へとつながる。周囲が自分の新しいデザインを見て驚いたり、感心してくれるのがすごく嬉しい。私もデザイナーや建築家、他の学生が作ったものを見て、既成概念を壊されるのが楽しい。自分には考えつかなかった、新鮮な発想をしているのがまた悔しくて、なにくそと思い頑張れる。

 

デザインに正解不正解は無く、時代と共に既成概念も塗りかえられていく。デザインとはなんなのか、答え無く宙にふわふわ浮いている掴みづらい分野だが、それが逆に良かったりもする。やれるとこまで追求し尽くしたい。

 

 

 

今日は週に一度の演習の日だ。課題提出がある。気分転換で記事を書いていたが、もうこんな時間になってしまった。けれど考えを一旦外へ向けた文章として文字化するのもいいね。頭の整理整頓になる。ブログを始めてよかったです。これからも最低週一ペースで更新はしていきたいな。

 

 

 

それでは。しばし仮眠。起きたらまた壊しきれていない既成概念と戦います。

 

おやすみなさい…。